海士
海士町旅館業協同組合
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地理歴史町概要

This is 海士 ! - 歴史
 太古の海士にも専ら天産の食物を採集して生活する原始住民がいた。

 縄文文化時代の遺跡として残っている「郡山遺跡」は、西暦紀元前4千年頃の集落跡である。
 弥生式文化の遺物もあって、その後古墳時代へ発展したことが遺跡遺物によって明らかである。
 現存する古墳群の分布状態から、この時代にはすでに現在の村落のある地域の全般にわたって、人が住んでいたことが分かる。
 古代天皇制国家が確立し、大宝の律令によって国郡里の制も定まり、隠岐は一国となり、海士郡は隠岐国の一郡となった。
 藤原官跡出土の木簡の中から、当時「調」としての隠岐国からの貢納物であった「海の幸」、特に鮑の加工品ほしあわび、のしあわびが珍重され不動の名声を博していたことが伺える。
 このことは、後代近世の長崎俵物としてのいりなまこ、するめなど、水産物加工の伝統へ受け継がれていく。
 一方隠岐国は、神亀元年(724)に遠流の地と定まり、中世、近世を通じて多くの流人が生活するようになった。
 承知5年には、上古流人の代表的人物であった小野篁が流され、その哀歌は隠岐の文化形成の上で大きな影響を与えている。

 中世の隠岐の歴史は、近江源佐々木一族の歴史でもある。建久3年(1192)鎌倉幕府が成立し、翌4年佐々木定網が隠岐一国の地頭職を拝領したことに始まり、広綱、晴清と権力者が続く。
 この間、承久3年(1221)後鳥羽院の、朝権回復をはかる御企てが水泡に帰し、幕府は上皇を隠岐国へ遷し奉った。
 上皇の興は、播磨、美作、備中の中国山路を通過して、伯耆路を経て出雲国美保関で風待ちの幾日かを滞在の後、隠岐国に渡られ海士郡崎港に入る。
 その後勝田山源福寺を以って行官と定められ、御在島十有九年の後崩御された。また元弘2年(1332)後醍醐天皇が隠岐へ配流されたが、翌3年には、御脱出、建武中輿の偉業を為しとげられるという事件の舞台となった。

 戦国時代に入り永禄9年には、但馬但後の海賊(尼子方)が、海士郡因屋城を襲撃したが、村上一族は別府の近藤氏と力を合せて防戦し、敵を敗走させて島民の難を救った。
 隠岐島の歴史にとって、永禄、元亀年間は、目まぐるしい変化と緊張に富んだ時代であった。

 近世の隠岐は、吉川、堀尾、京極各氏の戦国大名の領国時代を経て、松江藩松平家預り地として天領時代に入る。
 幕府体制下の住民は長い封建治下に農漁民として苦しい生活を強いられてきた。
 また一方、貨幣経済の発展とともに、西廻りの海運の路が拓かれ、隠岐は北前船の風侍、避難港として脚光をあびるようになった。

 近代に入り、慶応3年(1867)王攻復古の大号令が発せられ凶作と農民一揆の続発する中で迎えた明治維新は、隠岐が朝廷に編入され、永い松江藩の支配体制から抜けださなければならない時期であったが、尊王攘夷を主張する島後の神官庄屋の有志達は、慶応4年(1868)3月3千余の武装農民を集結させ、無血によって郡代を陣屋より追放し、島民自治を行った。
 しかし、太政官の指示を待った松江藩は、逆に兵を送って陣屋回復を行い5月には発砲して十数名の死者を出した。
 これが隠岐騒動と称せられる事件で、いわば隠岐維新ともいうべき志士達の決行であった。
 その後起きた廃仏毀釈運動の過激な高まりが、全島の寺院を焼き払うことになった。
隠岐島の近代化はこの騒動のおさまった後でようやく進展するのである。

 明治維新の新しい行政機構により、隠岐の所管は目まぐるしく変る。
 明治2年2月から「隠岐県」同2年8月から「大森県」、同3年1月から「浜田県」、同4年11月から「島根県」、同4年12月から「鳥取県」、同9年8月から「島根県」と所属が点々と変わりながら今日に至っている。
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