なぜ不昧(ふまい)と号したのか?


松平不昧公は、宝暦元年(1751)江戸に生れ、明和四年(1767)若干17歳で七代目藩主となりました。

幼名は鶴太郎といい、のち治好と称したましたが、藩主になるとともに治郷と改めています。
茶道では宗納、一々斎などの号がありましたが、なかでも大崎に隠居してから、南宗の『無門関』にある不落不昧にちなんだ不昧(ふまい)の号が広く知られています。

不昧公は、幼少時代は病弱でしたが、少年になると勇気盛んになり、手を焼いた周囲のものが幼少のころより好きだった茶の湯を勧め、また精神の修養のために禅道も学ぶよう指導したといいます。
こうして18歳で茶道に入門し、19歳で禅の道に入ることになり、生まれ持った素質と藩主としての素養とによって、のちに不昧流茶道を大成することになります。

明和七年(1770)20歳のとき『贅言(むだごと)』を著し、当時の道具自慢の茶道を批判し「利休の本意」である茶道の原点にたちかえることを求めました。
また、茶道を通じて国家を治める道を説き、当時の藩主としての理想や気迫を感じることができます。


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