會津屋八右衛門氏頌徳碑 浜田市松原湾
あいずやはちえもんししょうとくひ


碑の向こうの山が、浜田城跡です。

今津屋八右衛門(いまずやはちえもん1798〜1836)
 今津屋は浜田の松原浦(現在の浜田市松原町)で船頭をしていた家で、父清助が難破漂流しオランダ船に助けられ南洋を廻って帰った話(確証はない)をきっかけに、密貿易を行い、莫大な富を浜田藩にもたらしたと言われています。
 屋号の会津屋は、父清助が今津屋から替えたとか、渡海の罪にその縁者へ類が及ぶことを恐れて変更したなど言われていますが、昭和10年に建てられた八右衛門氏頌徳碑(写真)に會津屋と記述された事からその名称で通るようになったと言われています。

 浜田は室町幕府の1425(応永32)年、長浜町へ漂着した朝鮮人をきっかけとして、当時の領主周布氏から朝鮮との数十回の通商があり、朝鮮や中国にその名を知られていました。 伊勢松阪の貿易商角屋七郎兵衛は安南に渡り1631年(寛永8年)奉書船を通じて商品を日本に送り栄えました。この松阪の地には本居宣長(1730〜1801) の塾に門弟として浜田藩士が数名在籍し(浜田藩主も弟子)、角屋の海外貿易詳細を伝え聞いたと推測されます。又、加賀藩の密貿易で巨万の富を成したとされる銭屋五兵衛の持ち船も、浜田外ノ浦へ数度寄港しています。当時の藩主松平周防守康任(まつだいらやすとう1780-1841)は、幕府の重職に就いていたため、鎖国の時代であっても諸外国の情報に触れる事は多かったと推測されます。そして、八右衛門が密貿易を行った流れになります。

 竹島(鬱陵島)で密貿易をしたとされていますが、実際は朝鮮、中国、南洋で交易をしていたと言われています。関係者として家老岡田頼母、松井図書、橋本三兵衛等藩の要職に就く者がおり、当時の藩財政(藩主が幕府の重職に就いていた為)を考えると、八右衛門が申し出て密貿易を始めたと言われていますが、浜田藩自体が密貿易をさせたと考えても不思議ではないと思います。

 藩主松平周防守康任(まつだいらすおうのかみやすとう1780-1841)は1812(文化9)奏者番(幕府の役職)に就いてから寺社奉行兼帯、大阪城代、京都所司代、老中、1834(天保5)老中勝手掛のちに老中首座となりました。尚、康任の後任の形で後を追うように出世してきたのが水野忠邦であり、両者は幕府で権力の中枢にいましたが、浜田藩主康任は、1835(天保6)年仙石事件(但馬出石藩の御家騒動・康任の弟の娘が出石藩家老の嫡子に嫁いでいた)に連座し老中職を辞任、隠退蟄居、1836年(天保7)3月康爵が家督を継いだが、奥州棚倉へ移封の形で追い落とされてしまいました。密貿易が発覚し八右衛門が捕らえられたのは同年3月であり、政治的な意図があったのかもしれません。反対勢力の水野忠邦(老中)は以降徐々に権力を掌握し、天保10年(1839年)に老中首座となり、天保の改革に着手し、強権政治を断行することとなります。

 この今津屋八右衛門が行った竹島(鬱陵島)事件は間宮林蔵の通報により発覚されたとされています。その後の大阪町奉行矢部駿河守定謙の探索により摘発1836(天保7)され、関係者は厳罰に処されました。

 幕府は翌年1837(天保8)の御触書(幕府が出した法令)で「以下要約・松平周防守の元領分、石州浜田松原の八右衛門が竹島へ渡った件は厳罰に処した。この竹島(鬱陵島)は伯州米子のものが漁をしていたが、元禄に朝鮮国へ渡したので渡海を停止している。異国へ渡ることは重罪で、この島も同様である。海上においても異国船と会わない航路を心がけよ。この事を津々浦々漏れがないよう板に書いて高札場等へ設置すること。」としています。この御触書は全国各地に残っているようですが、地元では浜田市郷土資料館に高札が有り、浜田市久代町「財団法人石見安達美術館」には「御触書御請印帳」として、古文書の現物が保存してあります。(この御触書に「竹島を朝鮮国へ渡した」の記載から、現在の竹島を朝鮮国へ渡したと誤認を受けた事もあった)

 渡海で八右衛門は、家老等と朝鮮領ではない松嶋(現在の竹島)へ渡る事を名目としたり、洩れた時は漂着の姿を繕う等細かな口裏合わせ行ったことが供述調書である「竹嶋渡海一件記 全」(東京大学付属図書館)に記載があるそうで、朝鮮領とそうでない松島(現在の竹島)を明確に把握していたと思われます。

注:ここで表記の竹島は、現在の鬱陵島(ウツリョウトウ・韓国領)のことで、現在の竹島(当時は松嶋)とは異なります。

参考文献・協力
「八右衛門とその時代」浜田市教育委員会・「ふるさとを築いたひとびと」浜田市教育委員会・「歴史手帳」名著出版・「那賀郡史」旧那賀郡教育会・財団法人石見安達美術館資料

新町商店街振興組合